天正12年(1584年)、蒲生氏郷は秀吉の命により伊勢国12万3千石を与えられ、松ヶ島城に入城しました。
しかし、氏郷は松ヶ島城の立地が城下町の発展に不向きであると判断し、約4km内陸の「四五百森(よいほのもり)」に新たな城を築くことを決意します。
これが現在の松阪城(当時は「松坂城」)です。
しかし、氏郷は松ヶ島城の立地が城下町の発展に不向きであると判断し、約4km内陸の「四五百森(よいほのもり)」に新たな城を築くことを決意します。
これが現在の松阪城(当時は「松坂城」)です。
松坂城に残されているのは、この様な石垣のみです。
大手門から場内に入ると前にはこのような高い石垣が見えます。
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天正十六年(1588年)、この地にひとりの若き武将が訪れました。大手門から場内に入ると前にはこのような高い石垣が見えます。
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名は蒲生氏郷。織田信長に見出され、豊臣秀吉に重用された才将で、織田信長の娘「冬姫」妻に娶った元、近江の国「日野城の城主」でした。
「この地に、未来を築こう」そう決意した氏郷は、急ぎ築城に取りかかることになりました。
資材は松ヶ島城の瓦や、領内の寺社の材木、さらには古墳時代の石棺の蓋までも用いたといわれている。
国指定史跡となっている松阪城の案内看板
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この城は単なる軍事拠点ではなく、文化と商業の交差点を目指した都市計画だったようです。・・・
城の名は「松坂城」。秀吉から「坂」の字を賜り、城下町も「松坂」と改められ、武士の町、町人の町、寺社の町――それぞれが層をなして広がり、伊勢街道も新たに引き直された。
やがてこの町は、伊勢商人を輩出する商都として栄えることになる。
《日本のブランド牛「松阪牛」が有名ですね。》
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しかし・・・
氏郷がこの地にいたのはわずか数年。天正十八年(1590年)、小田原征伐の功により、彼は会津へと移封される。
その後、松坂城には服部一忠が入り、その後は古田重勝、そして紀州藩の支城として時代を越えていくことになります。
氏郷がこの地にいたのはわずか数年。天正十八年(1590年)、小田原征伐の功により、彼は会津へと移封される。
その後、松坂城には服部一忠が入り、その後は古田重勝、そして紀州藩の支城として時代を越えていくことになります。
今、松山城址に立てば、苔むす石垣が静かに語りかけてくるようでした。
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かつての喰違虎口、折れ曲がる大手道、そして風に揺れる松の梢――それらはすべて、氏郷が描いた「未来の町」の残響であったのかも知れません。・・・
松坂城は単なる軍事拠点ではなく、氏郷が目指した理想都市の核でした。
楽市楽座を定め、自分の故郷から近江商人を呼び寄せ、後の三井家の発祥にもつながる商都の礎を築いたのです。
このように、松阪城の築城は秀吉の命令を受けたものでありながら、氏郷自身の都市構想と美意識が色濃く反映された創造的な事業でした。
冬でも青々とした松は、忠誠・不変・繁栄の象徴として、武家の美意識でもありました。
松は庭園や城郭に好んで植えられ、格式と風格を示しているようでした。
松は庭園や城郭に好んで植えられ、格式と風格を示しているようでした。
松坂城では「商業と文化の融合」、若松城では「防衛と統治の中枢」として、氏郷はそれぞれの地に「松」の名を刻みました。
これは単なる地名ではなく、彼が築こうとした理想の都市、理想の政の象徴だったのかもしれません。
蒲生氏郷は近江日野の出身であり、伊勢松坂でも近江商人を積極的に招いて城下町を発展させました。
氏郷は「城を中心とした理想都市」の建設を目指していました。
近江からの人材招致は、彼の故郷への信頼と、文化・技術の融合による都市発展の鍵だったのです。氏郷は「城を中心とした理想都市」の建設を目指していました。
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その手法は会津でも踏襲され、大工・石工・左官などの職人が、鶴ヶ城の大改築にあたり、堅牢な石垣や七層の天守を築くために、近江の技術者が多数動員されました。
また、商人・町人などは城下町の経済活性化を目的に、近江商人を呼び寄せて楽市楽座を導入し、これにより、会津若松は奥州随一の商業都市へと発展します。
茶人・文化人に対しては、千利休の子・少庵をかくまい、茶室「麟閣」を設けるなど、文化的な交流も促進され、
会津若松城の建設と城下町の形成には、近江からの人材が深く関わっており、氏郷の美意識と政治的手腕が色濃く反映されています。
また、城の名前は「会津若松城」と言いますが、別名に自分の幼名であった「鶴千代」の鶴をとって「鶴ヶ城」と名付けられました。
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コメント
コメント一覧 (2)
松も品があるというのか、北海道の松はただの巨木にしか見えなくなりました。
鶴ヶ城は桜の咲く頃に訪れたことがあります。中には入りませんでしたが。
Ippei
が
しました
松の木ですが、こちらの方では庭木などに多く見るとこができます。
ただ、樹の形を整えるのに毎年けっこうお金がかかるのがやっかいです。
ここ数日ちょっと忙しい毎日を過ごしてブログの更新が途絶えてしまいました。
以前連載した「桔梗の城 坂本城」を、地元の方から「自費出版してほしい」と
の声が大幅に加筆した作品を出版するために忙殺されてしまいました。
来月行われるイベントに間に合わせる必要があったためです。先ず500部のオー
ダーがありました。
Ippei
が
しました